高浜虚子の世界
高浜虚子の句碑

高浜 虚子

 

高浜虚子の世界

山田 弘子


 高濱虚子没後四十年、ついに虚子を顕彰する念願の「虚子記念文学館」の完成を見ることが出来た。これは「ホトトギス」一門にとっては勿論、全俳壇にとっても待ち望まれた喜びである。
 虚子(本名清)は明治七年父池内庄四郎政忠(後、信夫)と母柳の四男として愛媛県松山に生まれた。父は松山藩の剣術監をつとめる武芸の達人であったが能楽もよくし、旧藩時代に地謡方を、維新後は東雲神社の地頭を務めた。母は虚子幼少の頃から古典文学などを語り聞かせ虚子の抒情性に大きな影響を与えたと言われる。また能楽への傾倒は父や兄の影響によるところ大であり、演能は勿論、能の脚本の執筆などその生涯を通じ深い関わりを持って行く。
 幼少時代を過ごした風早の西の下の風光は、常に虚子文学の根底を流れる原風景として展開されていくが、これを見てもまさに人間は自然の一部であり、自然そのものであることを虚子文学において実感するのである。
 明治二十四年、虚子は学友河東碧悟桐を介し正岡子規の知遇を得る。この出会いは虚子の生涯を決定づけた。その後子規と虚子との間に交された数多の書簡には、近代文学黎明期の若き情熱が感じとられ興味が尽きない。
 虚子と碧悟桐は正岡子規の双璧と目されるが、次第にそれぞれの文学観を醸成させてゆく中で新傾向に走った碧悟桐と袂を分かち、虚子は「花鳥諷詠」「客観写生」の理念をもって時代をリードして行くことになる。

 たとふれば独楽のはじける如くなり 虚子

 これは昭和十二年二月、碧悟桐の死を悼んだ弔句であるが、碧悟二人の個性の弾きあうさまを喧嘩独楽に託し友情を懐かしんだ見事な挨拶句である。
 虚子は生涯を通じ二十万句を超える俳句作品を始め、小説、写生文など明治・大正・昭和にわたり驚異的な数の文学作品を残したばかりか、多くの優れた作家を育成した。また昭和九年には初めて本格的な『新歳時記』を編み、その序文で季題に対する明快な見解を示した。ここにおいて現代の日本人の根本的な季節感が完成したといえる。この歳時記はまさに虚子の永遠の名作の一書である。
 さらに虚子の業績の中で忘れてはならないのは現在につながる女性俳句のきっかけを作ったことである。女性の俳句に目を向け、いち早く女性に俳句をつくらせた。今日の女流俳人隆盛の源流が虚子に遡ることを考えると、その先進性は驚くばかりである。
 明治三十年一月柳原極堂によって松山で創刊された「ほとゝぎす」は、翌三十一年秋東京に移され虚子に引き継がれた。以来百年を越えなおその歴史を刻み続けているが、そこには虚子が確立した俳句理念が連綿と流れている。虚子は「花鳥風詠」を深めやがて「存問の文学」さらには「極楽の文学」へと思想を発展させていった。
 このような虚子八十五年の多岐にわたる偉業を、いま膨大な資料の裏付けのもとに身近に目にふれる機会が出来たことに大きな昂りを覚えずにはいられない。
 虚子作品の秀れた文学性は疑うべきもない。だがその文学性のみを追求しても虚子を解きあかすことにはならないであろる。虚子のいかなる文学作品からも計り知れないエネルギーを感じる。虚子という人は常に「天地宇宙に運行」に呼吸を合わせ、万物の持つ力に自らを委ね俳句を詠み、ものを書き、生きぬいた人であった。天地のエネルギーが虚子の作品となり、息づかいとなって具現されているのである。

 白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子

 流れゆく大根の葉の早さかな

 去年今年貫く棒の如きもの

 虚子の忌日は四月八日である。ホトトギス百年を二年後に控えた平成六年、鎌倉の桜は殊の外見事であった。虚子の眠る源氏山はまるで大虚子のふところのようにふかぶかとした桜の花の雲で覆われ、虚子忌に参詣した人は私を含めすべての俳人たちを包み込んでいるように思えるのであった。

 みな虚子のふところにあり花の雲 弘子

 この思いは全ての俳人に共通のものであり、時代が移っても変わることはないであろう。



松山中学時代




左より年尾、立子、
虚子、つる女



虚子といと夫人




於須磨浦公園 左より躑躅、
虚子、汀子



壮年の虚子