俳句十二ヵ月

本のご紹介

稲畑 汀子

 

俳句十二ヵ月

理事長  稲畑 汀子

 
人間も自然の一部  ― 三月 ―

 三月は暦の上では仲春です。まだ寒い日もありますが、三月の声を聞くと急にくつろいだ気分になります。暑さ寒さも彼岸までといわれるように、三月は彼岸を境として寒さと暖かさが交替する時期です。このような三月の季節感を代表する季題としては、何といっても前半では「春めく」、後半では「暖か」がぴったりするのではないでしょうか。

 三月三日は桃の節句です。女の子の行末を願って雛を飾る風習は時代色、地方色豊かなゆかしく美しい行事ですが、それが心に沁みるのも長い冬の生活に耐えてきたからでしょう。三月六日頃は啓蟄。土中に冬眠していた地虫、蛇、蛙などが穴から出てくるといわれます。木々は芽を吹き草は萌え、野山の姿にも生気があふれ、流れる水の色や動きにもどこか温んできた感じがします。「山笑ふ」「山温む」という季題はよくその感じを表現しています。この時期、人間の目がいっそう親しく自然に注がれて来たことは「田螺」「蜆」「水草生ふ」「諸子」「柳鮠」「春椎茸」などの季題を見れば明らかでしょう。御水取は三月十三日です。これは東大寺二月堂で修される修二会の行事のクライマックスで、関西の本格的な春を告げる火の祭典です。もう春は後戻りしないでしょう。

 例年三月十八日頃から二十四日頃までがお彼岸、その中日に当たる二十一日頃は春分の日です。この日を境にして春は一気に本番となります。歳時記を見れば実に多くの草の芽、木々の芽が収載されています。それらは二月の「下萌」に見られるような漠然とした生気の気配とは違って、それぞれの形、個性をはっきりと主張しています。人間の生活も「田打」「畑打」「苗床」「種蒔」など農耕に忙しくなります。また「鰆」「鰊」「いかなご」などの季題に見られるように産卵のために沿岸に集まる魚を捕獲する漁が忙しくなります。暖かく晴れた日に、野に陽炎が立つようになると人々はどうしようもなく「野遊」に心を誘われることでしょう。「摘草」や摘まれる愛らしい草々の名前がずらりと歳時記に並んでいるのを見るとき、私は日本人がどれほど自然を愛し、自然と調和して生きることに喜びを見出してきたかを考えないわけにはまいりません。私たちの先人は「人間も自然の一部である」という認識以前の素朴な感情に立って自然と共感、共生してきたのでしょう。この考え方は自然破壊が進む今日、いっそう大切なものとなると私は思います。

 

 春の水蘇りたる蛇口かな     汀子

 1995年1月の阪神・淡路大震災の真っただ中にあった我が家でやっと水道が復旧したときに作ったものです。「春の水」は雪解水が滔々と河川に流れ込み、湖沼に満々と湛えられた柔らかく豊かなイメージというのが普通ですが、震災のため水のない生活に耐えた後に水道の蛇口から水が迸り出たときの感激は涙がでるほどで、まさに豊かな春の水というのが実感でした。





NHK出版 俳句十二ヵ月 より

 

 

 

 

 

本のご紹介

NHK出版 俳句十二ヵ月〜自然とともに生きる俳句〜

NHK俳壇の本
俳句十二ヵ月〜自然とともに生きる俳句〜
著者  稲畑汀子
発行  安藤龍男
発行所 日本放送出版協会
定価  本体1600円+税

日本に暮らす。俳句と暮らす。

現代俳壇の祖・高浜虚子の孫であり、俳誌「ホトトギス」の現主宰である筆者が、俳句とともに季節を生きる喜びと、虚子直伝の俳句の骨法を、やさしく語る。
季節の言葉「季題」を、古今の名句・美しい写真・実作のエピソードをもとに紹介する第一章「季節を友として」、虚子名言集をもとにした実作解説の第二章「ホトトギスの教え」、自然とともに生きる俳句の豊かさを語る第三章「自然と人間」等、見て美しい、読んでためになる一冊。
俳句の世界に興味を持つ人から、句歴の深い人まで、俳句を愛するすべての人へ贈る、十二か月を俳句と暮らすための俳句入門書。