正岡子規を偲ぶ「仰臥漫録」展



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〈「仰臥漫録」における、従弟・藤野古白の存在〉

 明治三十四年十月十三日の子規日記「仰臥漫録」には、左の如き生々しい子規の自殺願望が描かれ、ナイフと千枚通しの絵が非常なリアリティーをもって描き添えられている。そして「古白曰来(こはくいわくきたれ)」の四文字。この「古白」とは、六年前にピストル自殺した子規の母方の従弟、四歳年下の藤野古白のことである。妹律が風呂へ行き、母が出かけた一人の魔の時間、子規は逆上して自殺願望が勢い沸いてきたが、その時子規の脳裏を掠めたものは古白の「自分の所へ来い」と呼ぶ声であった。碧梧桐の回顧録によると子規と古白は俳句を含めて文学に対する意見が食い違い、「どこかソリの合はない点が」あったという。明治二十八年四月二十四日、子規は日清戦争の従軍記者として向かった金城において、十二日に古白逝去の知らせを聞いた。過酷な従軍体験によって、帰国後亡くなるまで、絶えず死と向き合わざるをえない健康状態であった子規にとって、向き合う死の向こう側にいつも古白の姿を見ていたに違いない。「仰臥漫録」の「古白曰来」の文字は、如実にそのことを語っている。
 母方の従弟にあたる親戚関係にある古白の粗暴で自己中心的な性格から子規も多々迷惑を蒙り、子規にとって古白は決して歓迎すべき親戚ではなかった、つまり子規が古白に支えてもらったとは微塵も思っていないであろうが、あまりの病苦に自殺も考える程の子規にとって、身をもって自殺の恐ろしさを呈した古白が、多少なりとも逆説的に生きる勇気を与えたと考えられるからである。どんなに病苦に喘いでも、古白の自殺以来、子規の中で自殺するという選択肢はなくなったものと思われるからである。

 









「仰臥漫録」中の「古白曰来」

 次の二通の新資料は、子規の胸に深く刻みこまれた古白の苦悩や自殺後の様態などを詳細に窺える書簡である。





明治二十七年六月一日付
子規宛藤野古白書簡

 古白はピストル自殺する十ヶ月前、子規に宛てて卒業論文を書きあぐねている心理状態を吐露していた。子規に宛てた古白の書簡(館蔵の新出資料)からは、卒業論文「審美論」の作成に苦しみ、自分の才能の限界を知る古白の苦悩を看取することができる。結果的に論文は書き上げられることはなかった。





明治二十八年四月二十六日付
加藤拓川宛大原恒徳書簡(正岡氏蔵)

 正岡氏所蔵の未公開資料からは、四月七日ピストル自殺した古白が、十二日に息絶えるまでの六日間、どのような死様で最後を迎えたのかを克明に窺うことができる。碧梧桐も『子規を語る』の中で病院での看護日記を記しているが、この書簡はより詳細に古白の様子が描かれている。

 

 


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