正岡子規を偲ぶ「仰臥漫録」展



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〈子規における、叔父・大原恒徳、加藤拓川の存在〉


〈子規の後見人として、経済面で正岡家を支えた子規の叔父・大原恒徳〉

 子規の母方の叔父。母八重の弟。子規の父常尚は、明治五年に四十歳の若さで亡くなったため、叔父の恒徳が残された正岡家の後見人として、経済的援助をした。子規は単身での東京上京後も、そして母と妹を呼び寄せてからも、終始恒徳に近況報告をしており、『子規全集』に掲載された恒徳宛子規書簡は百通近くと、その数においては虚子宛書簡に次ぐ多さである。
明治二十八年四月、子規が日清戦争の従軍記者としての帰国途中に喀血し、神戸病院に緊急入院した折も、恒徳は早々に松山から駆けつけている。まさに、子規にとって恒徳は、父親に代わる存在であった。

 





母・八重(中央)
叔父・恒徳(右)
叔父・拓川(左)





明治二十六年四月一日付
恒徳宛子規書簡

 新出の恒徳宛子規書簡は講談社版『子規全集』にも記載されていない。書簡の内容は借金の申込である。子規は前年の明治二十五年十二月から日本新聞社に正式に入社し、月給十五円をもらってはいたが、母八重や妹律を松山から根岸に呼び寄せての新生活のための出費に加えて、書籍代や薬代がかさみ、家計は火の車であった。同年二月にも恒徳に宛て十円の借金を三度にわたって願い出ていたが、松山の大原家も財政苦しく、すぐには送金されなかったらしい。本書簡は三月末日になっても送金されないため、たまりかねて四月一日に再び書き送ったものと推測される。
 『子規遺稿』編纂の折、虚子は恒徳から四月一日付子規書簡を受け取ってはいたが、子規・恒徳双方の名誉のためにも、この書簡掲載を虚子の判断において外したのではないだろうか。

 

〈子規に東京で学問する道を拓き、経済面・思想面において子規を支えた小叔父・加藤拓川〉

 子規の母方の叔父。母八重・恒徳の弟で、後に祖父の加藤家を継承した。本名は恒忠。幼名は忠三郎で、後に律の養子となって正岡家を継いだ拓川の三男、忠三郎も自分の幼名から命名した。明治八年に上京して司法省法学校に学び、陸羯南や原敬らと交わる。明治十八年以降は外務省交官としてパリ、ベルギー、スペインなどへ出張。依願退職後は松山市の衆議院議員となり原内閣のもとでパリ講和会議・シベリア派遣大使として活躍。晩年は松山市長となった。享年六十五歳で勲一等旭日大綬章を受ける。
 拓川は子規の東京での学問の道を拓いてくれた恩人である。明治十六年六月二日、子規は拓川より一通の書簡をもらう。書簡は子規の上京を許可するもので、この一通が子規の運命を大きく変えた。上京した子規に日本新聞社社主の陸羯南を紹介したのも拓川である。子規は拓川の兄恒徳同様、拓川にも借金の申込を送っており、経済面においても拓川からかなりの援助を受けていた。拓川の住まいが東京麻布であったこともあり、拓川には病状を詳しく記している。三十年頃から患部に膿がたまるようになっていた子規に、医者の補助として看護婦の手配をしたのも拓川であった。

 





明治三十三年(推定)七月七日付
子規宛拓川書簡(正岡氏所蔵)





『子規遺稿』 大正四年二月十一日発行

河東碧梧桐・高濱虚子 共編 

俳書堂蔵版 籾山書店出版

(ブラジル 木村要一郎氏寄贈)

 季題別子規句集・年代順歌集「竹の里歌」・写生文を中心とする子規小品文集・子規小説集・子規書簡集で構成された、千百頁にわたる大部な子規全集。編集者の虚子は、子規書簡所持者に声を掛け、書写させてもらっては返すという作業を数年前から繰り返していた。右の、このたび新たに発見された明治二十六年四月一日付大原恒徳宛子規書簡は、この『子規遺稿』編集のため、虚子が恒徳から借りた一通であったが、結果的に本書への掲載は見送られた。その後出版された講談社『子規全集』にも未収録である。

 

 


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