正岡子規を偲ぶ「仰臥漫録」展



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〈子規における、母・八重、妹・律の存在〉

 子規の父常尚は明治五年数え年四十歳の若さで亡くなり、八重は一人で六歳と三歳の二児を養育してきた。結核性カリエスに苦しむ子規の看護の合間に、薬や食事の買物、手紙や句会の連絡係もこなした。また、子規よりも三歳年下の妹律は、おさんどんに加えて薪割といった力仕事もしていた。結核菌により溜まった膿を取り除くための毎朝の包帯取替や便通の世話など、まさに看護婦以上であった。「仰臥漫録」の記録によると、便通は夜中であることが多く、そのために細切れな睡眠を余儀なくされていた。それほどまでに献身的であった律を、子規は「仰臥漫録」の中で、「理屈づめの女」「強情者」「癇癪持」と罵倒している。激痛による逆上ゆえの、愛情の裏返しであろうと想像される。
 子規没後の律は、神田共立女子職業学校本科に入学して裁縫を生業とする資格を取り、最初は事務員として、次いで本科の教員となって生計を立てていた。大正三年には、八重の弟加藤拓川の三男忠三郎を養子に迎え、正岡家を継承させた。

 





母・八重(左)
妹・律(右)
(大正6年7月撮影)







「仰臥漫録」に描かれた律







「仰臥漫録」に描かれた子規の誕生日の様子
(明治34年)





子規所蔵と伝えられる山東京傳の自画賛軸(正岡氏蔵)

 軸の裏側に子規自筆で「京傳自画賛」とあるのを看取することができる。書籍の出し入れ同様に、軸の出納も妹律の仕事であった。軸を広げることなく、誰もがすぐに内容がわかるよう、軸外側に作者名を記すという行為からは、子規の律への優しさも窺うことができる。





積み上げると人の背を遥かに越えた子規遺稿類を虫干し、管理・保存する律と寒川鼠骨





積み上げられた草稿の一葉「俳句分類」

 「俳句分類」は古俳諧を季語別に抜き出した子規の俳句分類ノート。ここでは「雁」を詠み込んだ句が列挙されている。おそらく、「仰臥漫録」の二冊も、この積み上げられた草稿の中に入っていたのであろう。句稿「寒山落木」、手控ノート「筆まかせ」、句会記録、古俳諧研究ノート「俳句分類」など、子規がその生涯をかけて遺した自筆原稿類を、律は毎年きちんと虫干し、保存してきた。従って、子規の真蹟類はすべて律の管理の下、子規旧庵に留められ、一葉たりとも散逸することはなかった。

 

 


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