「日本派」特別展4 ―虚子派と碧梧桐派の鍛錬句会稿―
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短冊
河東碧梧桐
(明治6〜昭和12)
「再びせぬこの渡り凧も鳴る空や 碧」
明治43年
玉島俳三昧が催された明治43年の詠。書体は明治40年以来開眼した中国六朝風の、新傾向俳句に合わせた独特の書風を用いた。短冊
大須賀乙字
(明治14〜大正9)
「寄進にも名つらねし縁や返り花 乙字」
福島生まれ。仙台第一中学時代から作句し、東大国文科入学と同時に碧梧桐に入門した。明治38年の初期俳三昧に参加し、41年2月、伊藤左千夫が主宰する文芸雑誌「アカネ」に乙字が「俳句界の新傾向」を掲載したことから、新傾向俳句の運動が起こった。しかし、玉島俳三昧後に碧梧桐が唱えた「無中心論」に乙字は強く反論し、碧梧桐の新傾向俳句から離反した。短冊
喜谷六花
(明治10〜昭和43)
「泊れば水に鰍(かじか)捕る二つの灯あり 六花」
東京生まれ。16歳で曹洞宗僧籍に入り、三の輪梅林寺住職となる。明治38年から碧童らと俳三昧に参加し、終世碧梧桐に師事した。短冊
荻原井泉水
(明治17〜昭和51)
「枕べ一にち灯しておいた日のなんと短日 井泉水」
東京生まれ。38年頃から俳号を「愛桜」から「井泉水」に改号。日本派に傾倒して浅茅・紫人らと一高俳句会を興す。碧梧桐の新傾向俳句を推し進めていた、碧門俊英の一人。新しい俳誌を創刊するため、安芸竹原に滞在中の碧梧桐を訪ね、玉島俳三昧に参加。玉島俳三昧後、碧梧桐が唱えた「無中心論」に賛同できず、44年4月「層雲」創刊後は、碧梧桐と袂を分かった。短冊
中塚一碧楼
(明治20〜昭和21)
前号、一碧 41年6月に改号
「夜の菜の花の匂ひ立ち君を帰さじ 一碧楼」
玉島(倉敷)生まれ。早稲田吟社にも一時参加。41年から日本俳句に投句し、42年城崎に碧梧桐を尋ね、「半ば自覚せぬ天才の煥発である」と評される。故郷玉島に、兄の太々夫、義弟の響也、甥の水仙籠とともに中塚四羽烏が碧梧桐を迎えた。碧梧桐の高弟ではあったが、添削して句が載せられることを嫌って「自選俳句」を出版。翌年には「試作」を創刊して一時碧梧桐から遠ざかった。短冊
広江八重桜
(明治12〜昭和20)
「入道雲鮎見る鮑の秋となり 八重桜」
出雲能義郡赤江村の豪農。中学時代、大谷繞石に師事。子規選の日本俳句を経て碧梧桐の日本俳句に投句した。42年12月25日から碧梧桐は八重桜の宅で越年。43年の玉島俳三昧に参加。短冊
塩谷鵜平
(明治10〜昭和15)
ネコ映画
「我輩は猫である 町はづれの貸家麦秋である 鵜平」
岐阜生まれ。33年に子規選日本俳句に初入選。36年日本派文芸雑誌「鵜川」を創刊、37年11月に「アラレ」と合併した。碧梧桐の全国行脚を句仏とともに経済的に支援した一人。42年続三千里行脚中の碧梧桐を岐阜に迎えた。玉島俳三昧には途中から参加。
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