「日本派」特別展4 ―虚子派と碧梧桐派の鍛錬句会稿―



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短冊

高浜虚子
(明治7〜昭和34)

「黄金虫擲(なげう)つ闇の深さ哉 虚子」

軸でも展示しているが、明治41年8月11日、鍛錬句会「日盛会」第11回の作。後に虚子自選句集『五百句』に所収された。

短冊

松根東洋城
(明治11〜昭和39)

「短夜や沢辺の白を田鶴となす 東洋城」

東京生まれ。松山中学、一高、東大を経て京大卒。39年に宮内庁に入り、一高では漱石に師事。「俳諧散心」に参加。41年から国民俳壇を虚子から引継ぎ、この頃虚子が尤も気にとめていた門人であったが、大正期に国民新聞の俳句選者に虚子が復帰依頼を受けた問題でもめ、後「ホトトギス」を離反した。

短冊

岡本癖三酔
(明治11〜昭和17)

「子規忌 鶏頭にふたゝび九月十九日 癖」

群馬高崎生まれ。秋声会を経て子規に師事。三田俳句会を興し、俳諧散心を始めとする虚子鍛錬句会に参加。俳画をよくし、日盛会の句会稿表紙の俳画も癖三酔かと推測される。

短冊

中野三允
(明治12〜昭和30)

「蚊柱をこれ見玉へや一と抱き 三允」

埼玉生まれ。早稲田大学の学生であった頃子規に師事し、「早稲田俳句会」を設立。俳諧散心第一回句会には参加できず、「デンポーデ フサンヲワビル チヂツカナ」と電報で不参を詫びた。

短冊

岡本松浜
(明治12〜昭和14)

「神の扉の菊の御門の初日かな 松浜」

大阪生まれ。32年に子規に師事し、38年上京して「ホトトギス社」社員としての編集、事務に携わった。虚子派鍛錬句会には必ず参加している。

短冊

柴 浅茅
(明治14〜昭和44)

「鳥語好晴木犀の香を遠み 浅茅」

奈良生まれ。子規に直接師事した。明治39〜40年代は、「ホトトギス」の俳句選者としても活躍している。

短冊

飯田蛇笏
(明治18〜昭和37)

「衣桁かげ吾よればなき梅雨かな 蛇笏」

山梨生まれ。早稲田大学の学生であった明治41年、虚子に入門し、夏休み実家には帰らず7月30日から蕪むし会や日盛会に約一ヶ月参加している。翌年帰郷の命を受け山梨で田園生活を送るが、大正元年に虚子が俳壇復帰し雑詠欄が復活すると同時に出句し、大正4年には雑詠欄巻頭を5回も飾った。

 

 


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