虚子誕生130記念展」 ―優品と虚子像でたどる



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虚子自筆資料

 





虚子自句
染筆鉢

「造化また赤を好むや赤椿  虚子」
(昭和二十三年作句)
虚子染筆鉢
 銘「赤椿」
椿をこよなく愛した虚子にちなむ、萩焼の虚子染筆赤椿鉢

虚子は花の中でも特に椿を愛し、中でも単弁の赤で黄色の蘂を抱いた山椿を好んで鎌倉の自宅の庭に植えさせ、椿で真っ赤に染まった庭に降り立ち恍惚となっていた。写生文「椿」には、

 私はこの赤い椿を眺めてゐると心ゆくばかり美しく感じて来るのであつた。若し天下に艶なるものを求めて歩き廻つたとしても遂にこの赤椿に若くものはないといふ心持さへするのであつた。

という文章の後にこの「造化また」の句が記されている。さらに写生文「雛鶏」には、

 この鵯といふ鳥は赤いものが好きなのか、だるまの実や南天の実を好んで啄むのである。それに又椿の花にもよく来る。椿の木が大揺れに揺れるのは、大概この鵯が来た時である。小鳥にしては大きな方であるこの鵯が、逆まになつて、赤い椿の花の中に嘴を突込んで、蜜を吸ふ。その自分のからだの重味で、枝からずり落ち、そのまゝあわてゝ飛び去る。

という冒頭の文章の後に、この句が記載されている。鵯も虚子も、共に赤椿を嗜好した。
この句は昭和二十三年二月十一日の作られている。同日の詠に「椿子と名附けて側に侍らしめ」があるように、この日は人形問屋「吉徳」の山田徳兵衛から俳号「土偶」命名のお礼に、身長約四十cmの振袖姿の少女人形を貰い受け、「椿子」と名づけた記念すべき日でもある。「造化また」「椿子と」の両句は共に、三年後の二十六年に執筆された小説『椿子物語』に再び掲載され、小説通り椿子人形は、千原叡子氏へ贈られた。
さて、椿子人形と関連の深いこの「赤椿」の鉢は、もともと虚子の次女、星野立子が所持していた。ホトトギス同人の成瀬正俊著『赤椿物語』によると、昭和五十年の初めに、この鉢は立子から成瀬氏に譲渡され、さらに平成五年五月三十日、成瀬氏から「椿子物語」のヒロインである千原氏に譲られたという。さらに当館開館時、記念のお祝いにと千原氏からご寄贈賜り、今回の展示で二度目のお披露目となった。この萩焼の鉢「赤椿」には、銹絵(鉄の釉薬)で椿の花と句が染筆されており、椿の絵は陶工によるものであるが、句は虚子と認めることができる。「造化また赤を好ミて赤椿」と箱書と異なる句形であることが気に掛かるが、どちらも最晩年の小振りな筆致である。





句集草稿
「虚子句集一」
と「自抄百句」
(明治二十八年)

 明治二十八年八月、虚子が明治二十四年秋から二十七年冬までの三百句を抜き出し、中でも秀逸と思われる百句に丸を施した、自選句集の草稿。
 明治二十八年八月、虚子が前年までの、新聞「日本」、「二葉集」「日本人」「青年文」「めざまし草」などから三百十六句を抜き出したものが「虚子句集一」であり、さらに句の下に○を付したもののみを抜き出したものが「自抄百句」である。刊行された虚子自身による自選句集は、大正三年一月の「ホトトギス」附録まで待たなければならないだけに、明治二十八年時点での自抄百句は貴重である。
明治二十八年八月三十日付子規宛虚子書簡には
旧年末までの凡句を選んで三百余句を得(もとよりひどいのもよせて)其内にて更に百句を撰び、先日御送り申候。已に御受取被下候事と存候。一笑を賜へば幸甚。
とあるように、虚子はこの「自抄百句」を松山の子規に送り、添削を施してもらっている。この頃の子規は、日清戦争の従軍記者として帰還の途中、船上で喀血して神戸病院に緊急入院していたが、虚子の看護の甲斐あって回復し、松山に帰省していた。






揮毫時期の
異なる
色紙と短冊

「遠山に日の当りたる枯野哉」

 短冊二葉と色紙一様の三種三様の書

 虚子の代表句の中でも、最も人口に膾炙した「遠山に」の句は、終世虚子が好んで染筆した句と言うことができる。虚子二十六歳、明治三十三年十一月二十五日虚子庵例会における作。
左に並べた二葉の短冊及び一葉の色紙は、同じく「遠山に」の句が染筆されているが、揮毫時期が三種三様に異なることにより、虚子筆跡の変化を知る上で大変有効な資料だといえよう。
向かって右の短冊は、現在遺っている自筆短冊の内では最も古い部類に属する、明治三十年代のものと推定することができる。明治期の書には、酔書かと思われるほどの、奔放な太書きの書線が多い。
上の色紙は大正から昭和初期の書で、伸びやかな筆運びと自在な筆の痩肥が美しい。
一方、左の短冊は若書きとは対照的に凝縮された小粒な文字で一行書きされており、昭和三十年代、最晩年のものであることが窺える。文字の間隔を広げ、行間を生かした極めて自然で味わい深い筆致である。





虚子筆
小色紙
「咲きミちてこぼるゝ花も無かりけり 虚子」
(昭和三年作句)

句は昭和三年四月八日、虚子五十四歳、鎌倉での作。縦一〇cm、横一二cmの小色紙であるが、一字一字大変力強く、丁寧な筆致で揮毫されており、昭和二十年代の筆跡と認められる。
なお、この句の句碑は年尾・汀子と併せ、三代句碑として芦屋市月若町の公園内に建立されている。

 

 


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