虚子誕生130記念展」 ―優品と虚子像でたどる



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虚子像

 






楠木彫虚子像
(厨子の中に安置された虚子木像)
(昭和三十三年制作)

市川鉄琅作
南宗寺老師軸
(昭和三十三年)

虚子宛京極杞陽葉書
(昭和三十三年十月七日付)

十月六日 御寿像開眼式
 南宗寺老師 庵主 年尾 夜半 美穂女等 偈に『欽君鶴髪寿南山』とあり。
 句会では、

南山の寺と喝し去る像の秋  夜半

といふのがございました。

南宗寺椿をやがて参らせん 杞陽

 昭和三十三年十月六日、堺玉藻句会の開かれたこの日、南宗寺(大阪堺市 臨済宗大徳寺派)放光庵において、虚子寿像の開眼式が行われた。
当日は、南宗寺老師、高浜年尾、稲畑汀子、田中秋琴女、後藤夜半、京極杞陽、田端美穂女らが出席した。
南宗寺九十七世泥牛叟は、虚子寿像開眼を寿ぐ七言絶句の偈を寄せており、その一軸が遺る。また、開眼式の様子は京極杞陽によって鎌倉の虚子にも伝えられており、杞陽の葉書も併せて陳列した。





虚子デスマスク
(石井鶴三
昭和三十四年制作)

 虚子のデスマスク
 虚子は昭和三十四年四月一日、脳溢血のため意識不明となり、八日に永眠した。満八十五歳。安らかな大往生であったことがこのマスクから窺うことができる。
デスマスクは、昭和十三年に虚子のブロンズ像の制作にも携わり(企画展示左側、写真パネル参照)、虚子から絶対的な信頼を得ていた彫刻家の石井鶴三が型どった。
 深大寺境内にある虚子胸像(昭和十三年) 
 「ホトトギス」五百号記念に同人達が贈った虚子の寿像。虚子の希望で彫刻家、石井鶴三が制作した。鶴三は挿絵画家でもあり、虚子の「丸の内」も鶴三が挿絵したものである。制作にあたり、虚子は鶴三のアトリエへ十八回も足を運び、同時に鶴三も虚子の吟行に同伴して虚子をスケッチした。似せること以上に、芸術家虚子の心のうちを表現するのに腐心したという。昭和十三年十一月三日、調布市の新田霞霧園の隣地(虚子次男、池内友次郎の庭)において、除幕式が行われた。その後、友次郎が都心に転居したため、同市の古刹、深大寺からの依頼で同寺に移されている。
なお、深大寺ではこの胸像の縁で、平成十五年五月二十九日、同境内に「遠山に日の当りたる枯野かな」の句碑が建立された。

 

 


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