虚子誕生130記念展」 ―優品と虚子像でたどる



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虚子像

 





川端龍子筆虚子像軸
「花鳥諷詠」下絵
(昭和二十九年制作)

 下絵ながら晩年の虚子の趣を如実に写した秀作。「龍子記念館」(東京大田区)に蔵されている完成作品「花鳥諷詠」の虚子の背景には、一本の梅の巨木に満開の白梅、たわわに実った青梅、黄葉した葉、枯枝に積もる雪といった四季が描かれており、虚子が唱えた俳句理念「花鳥諷詠」の世界を象徴している。この「花鳥諷詠」は昭和二十九年三月十六日から二十八日までの、第二十二回春の青龍展に出展された。虚子は満八十歳、同年十一月には文化勲章を授与された。
そもそも龍子と虚子の出会いは古く、明治四十年に龍子が二十二歳で国民新聞社会面の挿絵画家として入社した時に始まる。虚子は同社の学芸部長であった。龍子は同じく挿絵画家であった平福百穂と机を並べている。龍子の社会記事の挿絵は評判を呼び、後に「漫画、東京日記」として本になったが、その序文は虚子が執筆している。龍子と百穂は共に「ホトトギス」表紙絵画家及び俳人として活躍し、戦後には「ホトトギス」同人となった。


試作品四体



完成品二体



備前焼虚子胸像
(昭和三十八年制作)
伊勢崎陽山作
試作品四体
完成品二体

備前焼の虚子胸像は、昭和三十八年八月の「ホトトギス」八百号記念事業の一環として、ホトトギス社から頒布された。高さは約二十四cm。小豆島出身のホトトギス俳人、三木朱城の企画による。当初朱城は虚子寿像を希望していたが、間もなく虚子及び備前焼の名匠伊勢崎陽山の相次ぐ逝去という不運が続き、一時計画は頓挫した。虚子の死去により心の拠り所を失い、一時は茫然自失となっていた朱城であったが、俳友上田土筆坊の協力や、伊勢崎陽山(満)の日夜心血を注いだ努力により、数度の試作を経て、企画より六年目にしてようやく完成した。頒布とはいえ細部はすべて手作りで量産はできないため現在では大変貴重なものとなっている。 ここに、完成品二体と試作品四体を陳列した。試作品第一号は全く別人で虚子像と呼ぶには程遠いものであるが、何度も修正を繰り返し、より虚子らしくなっていく様子を、晩年の虚子の写真と照らし合わせながらご確認いただきたい。
 なお、完成品は二種類あり、釉薬の有無だけでなく、表情が微妙に異なっている。

 

 


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