「ホトトギス」一三〇〇号記念展



04

出口

 

「年尾」 命名に関する資料

明治三十三年十二月十六日に誕生した虚子の長男に、子規は「年尾」と「勝見」の二様を示し、虚子は「年尾」を選んだ。虚子の写生文「出産」は、「ホトトギス」四巻五号(三十四年二月二十八日刊)に掲載されている。





子規筆命名札
「年尾」
「勝見」

虚子宛子規書簡 明治三十三年十二月十七日
拝啓 男子御出生の由、奉賀候。命名之義、妙案も無之、別紙二様認め置候間、御択み被下度候。勝見など申も何の意味もなきことに御坐候。病み強く寝返り自由ならず、咳嗽ひゞきて困り候。一日記事の日に出産杯ハ妙也。是非書き給へ。校正ハよろしく御頼申上候。
十二月十七日  規
 虚兄





虚子写生文「出産」が掲載された「ホトトギス」四巻五号
(明治三十四年二月二十八日発行)





虚子選による年尾句稿

昭和十一年、年尾三十六歳の句稿。前年十年は、勤務先の旭シルク(株)
横浜支店から神戸支店へ転勤で居を芦屋に移した、年尾にとって転機となった年である。関西在住の俳人達と交わる中で本格的な俳句復帰を決意する一方で、年尾は日々に進む俳句に戸惑い、東京での俳句会において自分の作句が全く顧みられないことに焦りを感じていた。このような年尾に虚子は『猿蓑』の解読を薦め、山岡三重史・奈良鹿郎・皿井旭川らと共に輪講を始めている。これが後の古俳諧研究へと繋がっていった。
本資料の選をした虚子は 「余り解剖的にて繊細に先する感あり。要注意。」とアドバイスしている。このうち、朱丸の入った「枯草の中に氷柱の光り見ゆ」「寒造り杜氏案内に興もなげ」「土器に浸みゆく神酒や初詣」「のびきりし鴨の首やな水をたつ」の四句は、昭和十一年三月号「ホトトギス」の雑詠欄に掲載された。

「汀子」命名に関する年尾宛虚子書簡





昭和六年一月十五日
行子
典子
克子
汀子
順子
拝啓。名前別紙ノ通リ如何ヤト存候。コノウチ二テ御
選ヒ下度候。
 市村座切符ハ真砂子ヨリ委細御返事申上グル
事二致候。
 取急ギ右迄。怱々拝具。
  一月十五日 高濱 清
高濱 年尾 殿

 汀子は昭和六年一月八日、横浜市本牧にて高濱年尾・喜美子の次女として誕生。この書簡からわかるように、虚子が示した五つの選択肢の中から、年尾は「汀子」を選んだ。





高濱汀子宛虚子葉書
昭和二十四年九月三十日

(表書)芦屋市月若町二七 高濱汀子様
      鎌倉原ノ台   高濱ぢゝい
元気になつたさうで安心致しました。
なほよく気をおつけなさい。油断大敵。
今度は寄る時間が無さゝうです。
            絵は写生のこと
お手本

汀子が虚子に送った書簡には、隅に小さく飾りの様な絵があったという。虚子はこの汀子の絵に注目し、「絵は写生のこと」と記して自ら糸切鋏を描いて返信とした。「句も写生のこと」といった虚子の言葉が聞こえてくるかのようだ。

「廣太郎」命名に関する虚子書簡





汀子宛虚子葉書
   昭和三十二年五月二十二日 
汀子お目出度うございました。其後肥
立もよきことゝ存じます。
名前はよき思ひつきもありませんが、御下命により
    実
    夏雄
    廣太郎
などは如何や。尚稲畑家の御意向もあるべく、あなたの考へもあるべく、これに拘泥せず、適宜御極め成さるゝべし。取急ぎ。
注 現在の「ホトトギス」編集長、稲畑廣太郎は昭和三十二年五月二十日誕生。





虚子選による汀子句稿

昭和三十二年五月三日付
初産を間近に控えた汀子の句稿に虚子が選をしたもの。「生れ来る子のものばかり毛糸編む」「母となる日の近づきし芝青む」等の句に二重丸が施されている。
また、左端には「心の落着き句の上にも現はれたり。体を大事になさい。」という、虚子からの優しい一言が添えられている。





昭和27年11月 福岡にて
前列左から 高浜汀子、虚子、虚子の膝の上は中子長女・都子、坊城中子、高浜年尾
後列左から 星野立子、一人おいて、坊城俊厚





鎌倉虚子庵に集う一家
前列左より 晴子、糸夫人、虚子、池内たけし、年尾
後列左より 章子、宵子、立子、真砂子

 

 


04

出口